極楽せきゅあブログ

ときどきセキュリティ

コロナで封じ込められて考えたこと

昔々、といっても昭和くらいの時代。わからないことは職場の先輩に聞いていた。ベテランが蓄積してきた知恵は頼りになった。今でも、技能五輪とかで見られるものやいわゆる職人芸的なものは、醸造された知恵や感覚の結晶みたいなものを見せつけてくれている。
しかしコンピューター、IT、ICTの世界は全く違う。知恵に昇華する前に陳腐化してしまう世界。ある意味恐ろしいし疲弊するが、好奇心や食欲のような知識欲が衰えないタイプにとってはとても都合が良い世界でもある。
そういう世界になると職場に知恵者が居ることは稀になり(居ても長続きしない(笑))、外に知恵を求めるしか無くなる。あるいは知恵者の居る職場に転職するか。インターネット以前は知恵者の居る世界が遠かったけど、インターネットはそれを手元に強烈に引き寄せた。そのうち知恵を自分の中に留めているだけでなく、シェアし始めて世間はそれを称揚するようになった。
しかしインターネットはノイズも多い。知恵者は質問者に合わせて回答してくれるが、検索サイトは相当賢くなったけれども質問者に合わせる、ということをしてくれない。自分に合った良質な知識を探り当てるのに最低限の知恵が必要なのだ。ネットには単純にノイズも多いけれども、書き方を教わらずに見よう見まねで書いたテキストや、○○やってみましたー以上!というような若書き(よくある学生の研究発表ぽい(笑))も多い。良質な情報に行き当たるのにも知恵が必要な世界。
今はそれを埋めるものが出てきている。はてなに始まる良質なQAを蓄積共有するサービスは、Quaraなどに進化して、一流の専門家の丁寧な説明に触れることができる。その説明もRTされてシェアされる。
本体は行く末が気になるけれどもQiitaのような技術情報をシェアするサイト、サービスもネット上の情報群の質的向上に一役買っている。
クックパッドのような情報共有の仕組みの進化も興味深い。かつて地雷が多いと言われていたが、レピュテーションを事実の蓄積で示すつくれぽなどで情報の説得力を増している。Qiitaも良く玉石混淆だと言われるが、クックパッドのような使ってみました!という仕組みを採り入れたらおもしろいと思う。
対極的に、食べログのようにレピュテーションの使い方を誤った例も興味深い。
本質的には情報を集まる仕組みを構築し、ともかく集めたら勝ち、というのはある。グーグルは早くにそれに気づいてどんどん集めているし、Twitterフェイスブックも情報を集めまくっている。集めた情報をどうやって活かすか、社会として活かす方法、トラフィックを増やす=ビジネスモデルに活かす方法はこれも進化し続けているけど、さらにその上で、その質を担保する仕組みをうまく作れると知識の(おかしな表現だけど)純度が高まり、外部脳としてのインターネットの価値は途方も無いものになってくる。途方も無くなるんだけど、カジュアルにもなる。われわれはその先でどういうところで自分の頭を使うのか、使い所を模索し続けていかなければならない。ビジョンとして持っている必要があるのは、知識経済のその先の世界かも知れない。
コロナ禍は職場のノンバーバルなコミュニケーションから人間を隔離してしまった。ノンバーバルな部分を埋める方法を模索する一方で、じゃあ知恵をどこからどうやって借りるのか。↑の知恵を借りる世界、知恵の純度を高める世界は世間的にはまだ閉じられていて、世界の変化を見ている人にしか見えていなかった世界。家に封じ込められて仕事をする世界は、そうしたネットの知恵をより一層借りる必要がある。見えていなかった人たちを、ネットに拡がる良質な知恵の世界に誘導できるか。大げさに言うとそういうのが日本というコミュニティの力を上げることに繋がるように思える。
一方で知識を追いかける世界は、その分、ものを生み出さず新しいものを追い続けるという、地に足を着けていない感じ、新しい知識・技術ジャンキーみたいになってしまう恐れはある。次から次におもしろそうな情報が目の前に出てくる感覚。これに飲み込まれず、良質な情報を適量咀嚼して自分の生産性を上げていく。情報そのものの良質さと、その情報が自分の生産活動に役立つかどうかはまた別だろう。知識欲に流されず、適量にとどめて効率良くコンテンツを生産する。質の良いコンテンツは当然ながらネットの情報の質を上げる。知識を借りるものとしての恩返し。みんなで外部脳の質を上げる、こういう感覚が重要なのだと思う。