Winnyはどこか殺伐としていた2chのコミュニティ群の中にあって、比較的穏健な開発系コミュニティの中で生まれた。このコミュニティではある意味牧歌的に技術の追求・研究が行われていたため、当時を知るコミュニティ参加者からすると懐かしさを覚えるくらいで否定的な感情はほとんど無い。技術の進歩を目の当たりにする、当時のワクワク感を思い起こす人すら居るのではないだろうか。
対してWinnyとそこにばら撒かれたAntinny以降のさまざまなウイルスによる世間の喧噪のまっただ中に居て、暴露ウイルスが引き起こした悲劇を目撃してきた人たちの中では、Winnyには否定的な感情が強い。元凶はWinnyそのものではなくウイルスなのだけれども、Winnyさえ存在しなければ、そしてそれがあんなにも流行らなければ悲劇は起きなかった。どうしてもそういう思いを抱いてしまう。
その二つの印象の大きな乖離が、どこか危険な気がしてならない。
悲劇に近いところに居て対策に少しだけ関わっていた身からすると、暢気に興味を追求した結果危険なものを生み出してしまう技術者マインドが怖い部分もある。しかし必要なのは技術者の倫理というヤツなのか。Winnyがウイルスに対抗する術を持たなかったことはその技術者の倫理の問題なのか。Winnyユーザーがウイルス対策ソフトウエアを入れたがらなかったこと(Microsoft Defenderが無かった時代だった)が問題なのか。無知は罪と言うが、無知なユーザーを保護できない技術者に罪は無いのか。保護、と言ってもウイルス対策ソフトウエア相当の機能をWinnyに実装するようなことは(少なくとも当時は)到底無理なことだが、のちにキー汚染というアイディアが出てきたがそういうもののように、レピュテーション以上に強力にファイル流通に干渉する仕組みを実装できていたら。
ぬるぽウイルス出現から最終リリースまでの数ヶ月にそのアイディアと実装を期待するのは、それこそ無理なことだったろうか(まぁ詳しい事情はわからないのだが)。関連して、事案捜査の一環としてソースに触れること、新バージョンをリリースすることを禁じた司法機関の(結果的な)失策もあった。それらのことが重なり、多くの悲劇に繋がってしまった。
あのころ、ネットランナーなどのメディアはWinnyのことを「画期的な著作権『フリー』コンテンツ流通ツール」だとして強力にプッシュしていた。その一方で、凶悪化したAntinnyが猛威を振るい、漏洩事件が生んだ多くの悲劇がメディアによって報じられた。あえて「Winnyの安全な使い方」という記事で、Winny利用を止められないのならせめて暴露ウイルスに感染しないように、と説いたメディアもあった。ここにも乖離がある。
Winnyによる混沌の記憶が映画によって呼び起こされる今、↑のような社会と技術、技術者の倫理、みたいなところを改めて議論すべきなのかも知れない。